写真帖 やけ、しみよごれ多、剥げ破れ、傷み多
古書店価格22,000円
昭和15年、主に海軍の新兵に基礎教育をする機関として「海兵団」が作られた。
当初は3000人規模だったが、ピーク時には7000人から8000人となり、
隣の潜水学校も合わせると2万人近い人がおり、大竹は「海軍の町」という様子だった。
「海兵団」に入団したのは延べ約15万人といわれ、多くの人がここから戦地に向かって行った。
戦後、海外からの日本人引き上げ者を受け入れるため、大竹港が上陸港に指定された。
大竹港から引き上げた日本人の数は41万人にものぼり、多くの人が大竹で日本の地を踏んだ。
引き上げ港としての役割は昭和22年を持って終わり、その後埋め立てが行われ工業地帯となった。